クローズアップ現代+の毒親特集を見た

 
 毒親という言葉は、どうも響きがトゲトゲしていてあまり好きではない。
 とはいえ、これは他人事というわけでもない。
 
 私の親もなかなか不器用な人たちで、自分自身が大人になってみると、彼女たちがどうしてああいう行動をしてしまったのかは多少わかってくる。
 しかしながら、だからといって「あのとき酷い扱いをされた」ということは変わらないのだ。
 いじめをした人にとっては過去になったことがいつまでも被害者の心に傷跡として残るように、親にされたことはいつまでも心に傷として残り続けている。
 かつて傷つけられた私の中の「子ども」は、大人になっても親にされたことを覚えている。
 おそらくなくなることはないのだろう。
 
 私が親に求めていることはシンプルであり、それは、「取り返しのつかないことをしたという自覚」に他ならない。
 究極的には、あとはどうでもいいのだ。
 過去にしてしまったことの取り返しなどつかないのだから、それを自覚していてくれればそれでよかった。
 しかし、どうにもそれは難しいことだったようだ。
 一生懸命育ててきたのに、それを否定されることを呑み込めないのだろう。
 その気持ちもわからないでもない。
 しかし、自分が好きなものを他人も好きとは限らないように、自分にとって良かった子育てが子どもにとって良かったとは限らない。
 残酷だが、それが真実なのだと思う。
 
 番組では毒親に育てられた人が毒親になってしまう話が出てきたが、これは特殊なケースではなく、誰にでも起こり得ることの延長のように思えた。
 そもそも歳をとるにつれて、私たちの中には経験が蓄積されていく。
 ある問題に対して、自分はこのように解決したという紐づけが大量に積みあがっていくのだ。
 しかし、それは自分の場合の解法でしかない。
 他の人にもそれが適用できる可能性はあるが、それが普遍的な解法だとは、私にはとても思えない。
 100年もない一人の人間の寿命で、しかもこの広い世界のごく一部の人としか交流せずして、どうして答えが出せようか。
 
 しかし、経験が蓄積していくと、どうも説教臭くなっていくのも事実だ。
 これは厄介で、特に「自分は恵まれない環境で育ったが自力で道を切り開いてきた」と思っている人ほど危ういと思っている。
 その人は実は恵まれていたかもしれないし、恵まれていなかったかもしれない。
 とはいえ、「自分はできた」という成功体験が、かえって頑張れない人に対する厳しさになってしまうような気がする。
 あるいは、「自分はできなかった」という失敗体験から、子どもにはそんな思いをさせまいという気持ちが厳しさを生み出してしまう気がする。
 それら発露の仕方の一つとして、毒親があるような気がしているのだ。
 
 しかし、あくまでそれは親の自分勝手な気持ちに過ぎないのだと思う。
 それに子どもを付き合わせても良いのかというと、ノーなのではないか。
 
 そもそも子どもは生まれてくる所を選ぶことができない。
 親も子どもを選べないが、その一方で「子どもを産む」という選択ができる。
 これは大きいことだ。
 子どもは、自分に選択できない要素で親を決められ、いざ生まれてくると人生の方向性を決められている。
 それは、とても息苦しいように思う。
 その方向性が自分にとっても良いものであればいいが、もし悪いものであったならば……
 
 それは、生まれてきたという罪に対する、罰のようになってくる。
 
 そう感じる子どもが一人でも減れば良いなと思う、今日この頃だ。

引きこもりを個人の問題で終わらせてはいけない

 

 

  中高年の引きこもりが増加しているというニュースを見た。

  私自身もうつ病に伴って引きこもりを経験したことがあるのだが、引きこもりの背景にあったのは「恥」もしくは「自信の喪失」だった。

  そうした問題の背景を考えずに先延ばしにしてきたのが今であるような気がする。

 

 

  「恥」と「自信の喪失」の根はわかりやすい。

  要は社会が「引きこもりが個人の問題であり、個人の努力不足である」とか「普通は引きこもりにはならない」かのような考え方をしていることで、引きこもりである自分自身を肯定できず、何か社会に対して恥ずかしいことをしているようなことをしている気分になって、人目に触れるのが怖くなってしまうのだ。

  少なくとも私はそうであったし、他にもそうした人がいるように思っている。

 

 

  それでは、引きこもりは個人やその周囲の家庭の問題で片付けられるのだろうか?

  私はそのようには考えていない。引きこもりは社会の問題だ。

  というよりは、社会の問題として考えなければいけないと思う。

 

  引きこもりにせようつ病にせよ、それを個人の問題としてみると影に隠れてしまうが、問題の根幹は「労働力の減少」なのだと思う。

  あえて人の数字のように見るならば、引きこもりやうつ病が増加するにつれて、労働力がどんどん減っていくのだ。

  少し前から年金が話題となり、多くの高齢者を少ない現役世代で支えるといった図式は誰もがご存知のことかと思うが、その現役世代が肉体的破壊もしくは精神的破壊によってどんどん先細りしていくのだ。

  というより、既にそれは起きていることだろう。

  個人を責めている場合ではない。

 

 

  それではどうしてこうなるまで放っておいたんだろうと思えば(実際は完全に放っておいたわけではないのだろうが)、それは集団主義的性質が要因だと思う。

  身近な人と話すと、現代日本の問題のほとんどを個人主義化のせいかのように聞くのだが、私はむしろちっとも個人主義化していないのではないかなと思っている。

  それは何故かというと、個人を責める時に「みんなできてるのに」「みんなやってるのに」「これが普通なのに」といった枕詞が必ずと言っていいほどつくからだ。

  一体これのどこが個人主義なのだろうか。

  先述した引きこもりの「恥」に絡めて言えば、引きこもることで人様(集団)に迷惑をかけているみたいな感覚を植え付けられるのだ。

  これが集団主義でなければなんなのか。

 

  引きこもりをはじめとする多くの問題について、まず当事者個人を尊重して、その目線に立つことがどうも欠けてるような気がする。

  しかし、誰もが足を踏み外せば陥るのが引きこもりやうつ病なのだろう。

  自分は絶対にならないと思っても、巨大災害によって昨日までの世界が全て壊れてしまえば、どうなるかはわからない。

  そんな時に人々を受け止めるセーフティネットと、引き上げる強靭なロープが本来であれば必要なのだと思っている。

うつ病という体験

 
 今になって考えても、うつ病になったことは私の人生において大きい出来事だった。
 その中でも大きかったのは、「道を外れる」という経験をしたことだ。
 
 ちなみに、ここで「体験」と表現しているのは、イギリス心理学会の報告書を和訳した本『精神病と統合失調症の新しい理解』を参考にしている。
 同書にならって、精神病を「ある環境への適応が、別の環境において不適応になった結果」のように捉えるならば、私のうつ病も「自分が生まれてきた環境に適応した結果として、異なる環境に適応できなくなった」と言えると考えられる。
 
 さて、うつ病になったことで私が得たのは「道を外れる」という体験だった。
 この手の言葉に対して、敗北主義とか落伍者といった指摘をする人も見かけたことがあるが、しかし「道を外れる」という体験をするかしないかはなかなかに大きいものだと思う。
 
 ここで言っている「道を外れる」というのはどういうことかといえば、他の人と同じように生きることができなかったということだ。
 簡単な表現をすれば「普通ではなくなった」とすることもできるし、そうした表現の方が一般的だとは思う。
 だが、“普通は”高ストレス環境に長年置かれればうつ病になってもおかしくないだろうし、“普通は”うつ病になったら普通の生活が送れないものではないかと思っている。
 それはそれとして、この「道は外れる」という経験は、私に世界の見え方を変えさせた。
 
 いや、正確に言えば元より世界の見え方は多くの人と違っていたようなのだが、それをさらに加速させたと言ってもいいのかもしれない。
 文化人類学的には、ハーフのような「中心的ではない人」は「中心的な人」よりも社会の輪郭を見ることができるとの話を聞いたことがあるが、確かに「道を外れた人」の方が社会の不思議さに気づけやすいような気はする。
 というより、私が疑問に思うことを自称普通の人に会話しても、何故だか通じないのだ。
 
 例えば、テレビでは以前から同性愛者の人が出演しているのに、どうして身近にいると知ると気持ち悪がるのか、とか。
 例えば、追い詰められて自らの命を絶ってしまった人には同情するのに、どうして身近にいる高ストレス環境下の人には甘えるなと言ってしまうのか、とか。
 
 こうしたことは、「道を外れた人」じゃないと、なかなか見えてこないのかもしれない。
 うつ病という体験が私の人生にもたらしたのは、そうした視点だった。
 「道を外れる」ということ自体は、うつ病に限らず様々な体験が引き起こすだろうなとは思っている。
 
 それが良いことだったのか悪いことだったのかは、いまだにわからない。
 なんにせよ、色々な疑問がおおやけに話せるよう世の中になって欲しいなとは思うばかりだ。

ブログを始めた

 

 なんとなくブログを始めることにした。

 大まかな理由としては、自分が思ったことや自分に見えているものを書き留めておきたかったからだ。

 とかく、この世界には疑問なことや不思議なことが多い。

 しかし、それを話しても多くの場合は理解されないと経験している。

 おそらく多くの「うつ病やそれに類するものと自分は無縁だと思っている人々」にとってみれば、理解しがたいことなのだろうと思う。

 

 とはいえ、実際のところ、自分の感じていることが完全に間違っているとも思えない。

 それもそのはずで、自分の考えや自分の感覚は、自分にとって正しいのは当然なのだと思う。

 それは誰もが持っているものだろう。

 しかし何故、そこに優劣がついてしまうのか。

 上下がつき、「正しいものと正しくないもの」が決められてしまうのか。

 不思議だ。

 

 とかく、この世界には疑問なことや不思議なことが多い。

 気が向いたら、それを書いていきたい。