引きこもりを個人の問題で終わらせてはいけない

 

 

  中高年の引きこもりが増加しているというニュースを見た。

  私自身もうつ病に伴って引きこもりを経験したことがあるのだが、引きこもりの背景にあったのは「恥」もしくは「自信の喪失」だった。

  そうした問題の背景を考えずに先延ばしにしてきたのが今であるような気がする。

 

 

  「恥」と「自信の喪失」の根はわかりやすい。

  要は社会が「引きこもりが個人の問題であり、個人の努力不足である」とか「普通は引きこもりにはならない」かのような考え方をしていることで、引きこもりである自分自身を肯定できず、何か社会に対して恥ずかしいことをしているようなことをしている気分になって、人目に触れるのが怖くなってしまうのだ。

  少なくとも私はそうであったし、他にもそうした人がいるように思っている。

 

 

  それでは、引きこもりは個人やその周囲の家庭の問題で片付けられるのだろうか?

  私はそのようには考えていない。引きこもりは社会の問題だ。

  というよりは、社会の問題として考えなければいけないと思う。

 

  引きこもりにせようつ病にせよ、それを個人の問題としてみると影に隠れてしまうが、問題の根幹は「労働力の減少」なのだと思う。

  あえて人の数字のように見るならば、引きこもりやうつ病が増加するにつれて、労働力がどんどん減っていくのだ。

  少し前から年金が話題となり、多くの高齢者を少ない現役世代で支えるといった図式は誰もがご存知のことかと思うが、その現役世代が肉体的破壊もしくは精神的破壊によってどんどん先細りしていくのだ。

  というより、既にそれは起きていることだろう。

  個人を責めている場合ではない。

 

 

  それではどうしてこうなるまで放っておいたんだろうと思えば(実際は完全に放っておいたわけではないのだろうが)、それは集団主義的性質が要因だと思う。

  身近な人と話すと、現代日本の問題のほとんどを個人主義化のせいかのように聞くのだが、私はむしろちっとも個人主義化していないのではないかなと思っている。

  それは何故かというと、個人を責める時に「みんなできてるのに」「みんなやってるのに」「これが普通なのに」といった枕詞が必ずと言っていいほどつくからだ。

  一体これのどこが個人主義なのだろうか。

  先述した引きこもりの「恥」に絡めて言えば、引きこもることで人様(集団)に迷惑をかけているみたいな感覚を植え付けられるのだ。

  これが集団主義でなければなんなのか。

 

  引きこもりをはじめとする多くの問題について、まず当事者個人を尊重して、その目線に立つことがどうも欠けてるような気がする。

  しかし、誰もが足を踏み外せば陥るのが引きこもりやうつ病なのだろう。

  自分は絶対にならないと思っても、巨大災害によって昨日までの世界が全て壊れてしまえば、どうなるかはわからない。

  そんな時に人々を受け止めるセーフティネットと、引き上げる強靭なロープが本来であれば必要なのだと思っている。