うつ病という体験
今になって考えても、うつ病になったことは私の人生において大きい出来事だった。
その中でも大きかったのは、「道を外れる」という経験をしたことだ。
ちなみに、ここで「体験」と表現しているのは、イギリス心理学会の報告書を和訳した本『精神病と統合失調症の新しい理解』を参考にしている。
同書にならって、精神病を「ある環境への適応が、別の環境において不適応になった結果」のように捉えるならば、私のうつ病も「自分が生まれてきた環境に適応した結果として、異なる環境に適応できなくなった」と言えると考えられる。
さて、うつ病になったことで私が得たのは「道を外れる」という体験だった。
この手の言葉に対して、敗北主義とか落伍者といった指摘をする人も見かけたことがあるが、しかし「道を外れる」という体験をするかしないかはなかなかに大きいものだと思う。
ここで言っている「道を外れる」というのはどういうことかといえば、他の人と同じように生きることができなかったということだ。
簡単な表現をすれば「普通ではなくなった」とすることもできるし、そうした表現の方が一般的だとは思う。
それはそれとして、この「道は外れる」という経験は、私に世界の見え方を変えさせた。
いや、正確に言えば元より世界の見え方は多くの人と違っていたようなのだが、それをさらに加速させたと言ってもいいのかもしれない。
文化人類学的には、ハーフのような「中心的ではない人」は「中心的な人」よりも社会の輪郭を見ることができるとの話を聞いたことがあるが、確かに「道を外れた人」の方が社会の不思議さに気づけやすいような気はする。
というより、私が疑問に思うことを自称普通の人に会話しても、何故だか通じないのだ。
例えば、テレビでは以前から同性愛者の人が出演しているのに、どうして身近にいると知ると気持ち悪がるのか、とか。
例えば、追い詰められて自らの命を絶ってしまった人には同情するのに、どうして身近にいる高ストレス環境下の人には甘えるなと言ってしまうのか、とか。
こうしたことは、「道を外れた人」じゃないと、なかなか見えてこないのかもしれない。
うつ病という体験が私の人生にもたらしたのは、そうした視点だった。
「道を外れる」ということ自体は、うつ病に限らず様々な体験が引き起こすだろうなとは思っている。
それが良いことだったのか悪いことだったのかは、いまだにわからない。
なんにせよ、色々な疑問がおおやけに話せるよう世の中になって欲しいなとは思うばかりだ。